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岩本町のあゆみ

 私達の住む岩本町が、江戸の初期、どう言う名称で呼ばれていたかは、定かでありません。 この地域は、古くは雁淵(がんぶち)とか、笹原(ささはら)と言われる沼地が一面に広がっていました。 沼地がいつ頃、埋めたてられたのか分りませんが、亨保年間(1716年〜1735年)以前の一時期、 不老山無量寺寿松院と言うお寺があり、間もなく元鳥越(もととりごえ)に移転し、その跡地が、松平太郎八の武家地になったと、しるされています。 今の行政区画とは、もちろん異なりますが、岩本町ができたのは、亨保年間(1716年〜1735年)の事です。

 北の玄関口「和泉橋」は天和(てんな)3年(1683年)の古い地図にも記載があります。藤堂和泉守高虎の創架と言われ、当時は「和泉殿橋」と呼ばれていました。近くに松平伊豆守の屋敷もあり幕臣の家々が、今の町会単位の大きさで並んでいました。 その脇を流れる神田川は、火災や洪水の防止と物流の大動脈として万治4年(1661年)に堀割され、 堀った土は盛りあげられ、土手を築き、柳の木を棺え、柳原土手と言われる基礎ができました。しかし、その土手も明治6年に取りこわされました。

  明治14年頃には、神田川にそった道の両側に、「吊しんぼう」と呼ばれる古着屋が100軒程も並び、常設の古着市場が開かれました。 明治30年代には400軒あまりにもなり、裸電球が軒を照らし、店員の手ばたき、掛け声も高く、昭和10年頃迄つづき、東京の名所として全国にその名を、とどろかせました。 又、川に添った場所には、レンガ造りの米倉も建ち並び、米俵をかつぎ、 細い板を軽ろやかに渡る荷揚人足の姿もみられました。ギンヤンマが川面をかすめ、魚釣りや水泳ができた川でした。昭和2年頃までは市電も走り、通りには「松竹館」と言う活動写真館もあり、皆は「土手活(どてかつ)」と呼んでいました。

 大正12年の関東大震災では、東京全体で57万戸が焼失。死者、行方不明14万人を出し、神田川にも火災をのがれ水に入ったが、川面を火がなめて多くの死者を出したと聞いております。 昭和のはじめ、大規模な区画整理があり、かつて、二六横丁と呼ばれ、にぎわっていた通りも昭和通りとなり、又、東西には靖国通りができ、柳原土手の市電が移りました。現在の町会の区分も、この頃できました。

 現在の岩本町6番の所には柳原橋があり、浜町川が流れ、日本橋方面に向う荷物を山積みした舟で混雑していました。 今は暗渠(あんきょ)となり、大和橋の下は駐車場となって、昔の面影をしのぶ事はできません。 その頃(昭和初期)、今の6番、7番、8番、9番の所は、お菓子の製造店とか、玩具の問屋が多くあり、 アメの匂いがたちこめていました。当時の行政指導でしょうか、店々はその後、錦糸町や合羽橋に移転しました。 10番、現在の山崎製パン(株)本社の所には、古着市場があり、当初は木造の床店と露店で営業をしておりましたが、昭和の初め4階建ての近代ビルができ、地階は飲食店、4階には「和泉橋ダンスホール」があり当時の社交場として、にぎわっておりました。昭和10年頃の古着市場の様子は、朝6時より正午迄が営業時間で今の築地市場の混雑ぶりでした。一軒が畳2帖の床店で赤毛せんを敷き、着物・洋服の古着を並べて、呼び声高く、ソロバン片手に真剣勝負。 売れ残ったら、大風呂敷に包んで、大八車に積んで毎日、持ち帰るシステムです。午後は子供達の遊び場です。 間仕切りのパイプで鉄棒遊び、鬼ゴッコ、かくれんぼ等で遊ばれた経験をお持ちの町会員も多いと思います。

 昭和20年。東京地区は大空襲に見舞れ、区内でもいたる所が爆弾攻撃を受け、多数の死者、家屋の焼失をまねき、人口・戸数とも急減しました。当町会も焼け野原となり、総武線から浅草橋の方まで見通す事ができました。 今では信じがたい事です。昭和の4階建近代ビルも焼失しました。戦後、占領軍の一声、防衛庁の前身、特別調達庁が入り、その後、全国中等学校教料書出版(株)になり、現在の山崎製パン(株)本社ビルができあがりました。

 焼け野原となった岩本町にも、バラックが建ちはじめ、紳士服や婦人服を中心とする繊維メーカーが主体となり、 町を復興していきました。町内会「企業対抗野球大会」も盛大に行なわれ、昭和通りの真中で、お祭や盆踊り大会も行なわれる様になり、とてもにぎやかでした。昭和44年、昭和通りの上に首都高速1号線ができ、地下鉄も開通し町の様子は一変しました。地下鉄「日比谷線」「新宿線」の開通でビルが建ち並び、ご存知の通り多種多様の企業が営業しております。以上、駆け足で町の歩みをみてきました。 町の移りかわりが、いくらかでも分って戴ければ幸です。多くの人達がつどう場所ですので皆様で町を大切に守っていきましょう。 今後とも町会に対する御理解、御協力を、よろしく御願いします。


本コンテンツは岩本町三丁目石井町会長の許可を頂いて掲載しております。 なお、発行当時のまま掲載しておりますので 現状と異なる部分が若干ございますがご了承ください。
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